あの戦艦「大和」から奇跡的に生きて帰った男が語った
「沈没に至るまでの悲惨な様相」

神立 尚紀  カメラマン・ノンフィクション作家
出典: 2024.04.07  現代ビジネス https://gendai.media/articles/-/126575

私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。今回は79年前の1945年4月7日、戦艦「大和」沈没から奇跡的に生還し、防衛省にいまも残る「軍艦大和戦闘詳報」を書いた副砲長の証言である。

戦艦「大和」出撃


「准士官以上、第一砲塔右舷急ゲ」「総員集合五分前」の号令が、戦艦「大和」の艦内スピーカーを通して響きわたったのは、昭和20(1945)年4月5日、午後3時過ぎのことである。

すでに米軍は沖縄に上陸し、日本陸海軍は沖縄に来攻した米軍に対し、まさに総攻撃をかけようとしているところだった。

「大和」は、口径46センチの巨砲9門を搭載、世界最大最強の戦艦として誕生しながら、日本海軍自らが真珠湾攻撃(昭和16年12月8日。停泊中の戦艦を航空攻撃で撃沈)、それに続くマレー沖海戦(同年12月10日、航行中の戦艦を世界で初めて航空攻撃のみで撃沈)などで航空戦の時代を切り拓いたこともあって、本来の威力を発揮する機会のないまま生きながらえていた。基準排水量6万4000トン、公試排水量6万9000トン、全長263メートル、全幅38.9メートル。主要部は厚い装甲に守られ、「不沈艦」とも称されたが、姉妹艦「武蔵」は、すでに昭和19(1944)年10月24日、フィリピンで米軍機の攻撃を受け、撃沈されている。また「大和」型三番艦として建造中に空母に改造された「信濃」も、同年11月29日、横須賀から呉に回航中、米潜水艦の魚雷を受け、潮岬沖であっけなく沈没している。



昭和16年10月20日、宿毛湾沖で全力予行運転中の戦艦「大和」。このとき27.46ノット(時速約50.86キロ)を記録したという


清水芳人(1912‐2008)は当時海軍少佐で、「大和」第十分隊長(戦闘配置は副砲長。6門の15.5センチ副砲を指揮する)を務めていた。急いで艦長・有賀幸作大佐、副長・能村次郎大佐の待つ前甲板に駆けつけた清水に、副長は黙って、手にしていた電報用紙を差し出した。そこには、次のように書かれていた。

〈1YB(大和2sd)ハ海上特攻トシテ八日黎明沖縄島ニ突入ヲ目途トシ 急速出撃準備ヲ完成スベシ〉(聯合〔れんごう〕艦隊電令作第六〇三號 昭和二十年四月五日一三五九)(1YBは第一遊撃部隊、2sdは第二水雷戦隊を意味する。一三五九は午後一時五十九分)



昭和16年10月30日、宿毛湾沖で全力公試運転中の「大和」


「これまでも出撃するときは生還を期していなかったし、半ば予想していたことではありましたが、電文にある『特攻』の二文字が、異様なまでに目に焼きつきました。同じ特攻でも、飛行機のほうは建前として『志願』ということになっていましたが、この海上特攻は否応なしの至上命令、『大和』だけでも3000名以上の乗組員がいるわけです。しかしどういうものか悲壮な気分にもなれず、祖国の安危急迫のとき、一億特攻のさきがけとして『大和』と運命をともにするのは本望、なにも思い残すことはない、と覚悟を決めました」

「ああよかった、これで安心して征ける」

前甲板に整列した全乗組員に、有賀艦長は、

「出撃に際し、いまさら改めて言うことはない。全世界が我々に注目するであろう。ただ全力を尽くして任務を達成し、全海軍の期待に添いたいと思う」

と訓示した。清水の回想――。

「飛行機の護衛のない艦隊が、敵地に乗り込んで行ったらどうなるか、これまでの戦訓からも明らかです。私たちも無事に沖縄へ着けるとは思わない。しかし、もし万が一、天候が悪かったりして、敵機の攻撃を受けずにたどり着くことができたら、命令通りに撃ちまくるだけだと思っていました。怖れていては前に進めない。死ぬまでは生きてるんだからと思って、遺書も書きませんでした」

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「大和」には、出撃準備命令に続いて、すぐさま連合艦隊からの出撃命令が届いた。

〈海上特攻隊ハY-1日黎明時豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入敵ノ水上艦艇並ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ Y日ヲ八日トス〉(聯合艦隊電令作第六〇七號 四月五日一五〇〇)

「大和」には海軍兵学校七十四期を卒業したばかりの少尉候補生が42名、4月3日から乗艦していて、清水がその指導官を務めていたが、特攻出撃の命令を受けて、艦長の決断で候補生を退艦させることになった。若い候補生たちは「私たちもぜひ連れて行ってください」と艦長に直訴したが、「皆の気持ちはよくわかる。残って国のために尽くしてもらいたい」と諭す艦長の言葉に、涙を呑んで退艦していった。



昭和20年1月1日、「大和」前檣楼右下の前甲板にて、分隊長以上の士官の集合写真。前列左から6人めより副長・能村次郎大佐、艦長・有賀幸作大佐、内務長・林紫郎中佐、副砲長・清水芳人少佐。3列めの右から3人め後部副砲指揮官・臼淵馨大尉


「ああよかった、これで安心して征ける」

と、清水は安堵した。南北朝時代、楠木正成が最後の出陣に際して、その子・正行を諭した故事が思い出された。

「この大和を沈めてたまるものか」

「この晩、艦内で最後の酒宴が行われました。テーブルや椅子など可燃物はすでに陸揚げしているので、鉄の床に座っての宴会です。乾杯、乾杯で酔いつぶれた私を、部下の下士官たちが皆で私室に担ぎこんでくれました。『分隊長、最後ですから私たちで毛布を掛けさせてください』という部下に、『最後ではないぞ、この調子で明日も寝かせてもらうからな。大和が沈むものか。皆、頑張れよ』と声をかけました。そのときの毛布の温かみは、90歳(取材当時)になったいまも忘れられません。そこで、『大和は絶対に沈まんぞ、沈むまではナ』と付け加えたところ、皆どっと爆笑し、『おい、撃って撃って撃ちまくろう、この大和を沈めてたまるものか』と威勢のよい声が、いつものにこやかな顔から返ってきました」



清水芳人少佐。「大和」の第三主砲塔脇にて。足元の甲板が黒く塗られているのがわかる


出撃当日、4月6日は、海辺近くに散在する桜がまさに満開、松の緑に映えて美しく、清水は、これが祖国の見納めと、双眼鏡をのぞきながら自分に言い聞かせた。

午後3時20分、「大和」以下、軽巡「矢矧」、駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「濱風」「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」の10隻は、徳山沖を出撃した。

周防灘で駆逐艦各艦が、「大和」を目標に襲撃訓練を約1時間実施したあと、午後6時、豊後水道の通過を前に、「手空キ総員前甲板」の号令が出て、現配置(哨戒直についている者)以外の乗組員が集合した。すでに操艦中で艦橋から離れられない艦長に代わって、能村副長より、連合艦隊司令長官・豊田副武大将、「大和」に乗艦している第二艦隊司令長官・伊藤整一中将の、出撃にあたっての訓示が伝達された。副長は訓示を、

「我々の行く手にはいかなる運命が待ち構えているかも知れない。しかし、日頃鍛錬した腕を十二分に発揮して、この『大和』を神風大和たらしめたい」

と結んだ。夕暮れ迫る上甲板に並んだ、草色の第三種軍装の顔、顔。眼前の巨砲、そそり立つ前檣楼、後檣にはためく軍艦旗。「君が代」奉唱、万歳の嵐。清水は「特攻出撃」の実感をひしひしと味わったという。

瀬戸内海を一歩出ると、そこはもう、敵潜水艦が待ち構えている戦場である。「大和」は警戒を厳重にしながら、豊後水道を南下した。

零戦が飛ぶのはありがたく、また心強く感じました」

夜が明けて4月7日。この日の朝、第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将の命を受けた、第二〇三海軍航空隊の零戦10機と、第三五二海軍航空隊の零戦12機が交代で「大和」上空に飛来、3時間あまりにわたって上空哨戒(護衛飛行)を実施した。清水は、

「零戦が飛ぶのはよく見えました。護衛というより、司令部がせめてものはなむけとして見送りに出してくれたのだと思い、ありがたく、また心強く感じました」

と回想する。三五二空の零戦隊指揮官・植松眞衛(まもる)大尉は私のインタビューに、

「この日は雲が低く垂れこめていて、『大和』の発見には苦労しました。艦隊の位置は佐多岬の270度(西)、距離70浬(約130キロ)との情報を得ていたので、硫黄島、黒島を経て、目標となる草垣諸島を探したんですが視界不良で見当たらず、ようやく雲の合間に艦隊を見つけたのが午前9時。そこで、先に哨戒にあたっていた二〇三空の零戦と交代し、雲の下、高度300メートル以下の低空を旋回しながら護衛しました。『大和』の甲板から手を振る乗組員の姿が見えましたよ。私の隊が飛んでいる間には、敵機は姿を見せませんでしたが……」

と語っている。零戦隊が引き揚げた直後から、2機の米軍飛行艇が、遠く低空で「大和」に触接(しょくせつ)を始めた。「撃ち方用意」が下令され、主砲、副砲をそちらの方向へ向けると、敵機は雲のなかに隠れた(午前10時18分。記録では、「主副砲射撃開始」とあるが、清水は、この飛行艇に対しての射撃は間に合わなかったと回想している)が、約2時間後の12時32分、敵艦上機の大群が来襲した。



三五二空零戦隊指揮官・植松眞衛大尉が「大和」護衛の当日に使用した航空図。飛行経路と「大和」の推定沈没地点が記されている


「雲が低くて、電探(レーダー)では捕捉しているのに、敵機の姿がなかなか見えない。飛行機に対しては電探射撃ができなかったんです。やがて雲の合間から黒い点々のような飛行機が見えたと思ったら、敵機は突然、死角の後方から急降下してきて、爆弾が後部指揮所を直撃しました。そこには後部副砲の指揮官・臼淵馨大尉がいたんですが、彼はその一弾で戦死してしまった。私は、ふつう真っ先に狙われるのは前檣楼だから、臼淵大尉には後部にあって、私の戦死後の副砲指揮を任せるつもりだったのが、裏目に出てしまいました。無念でしたね……」



米軍機の攻撃を受ける「大和」


清水の戦闘配置である副砲射撃指揮所は、前檣楼の上部戦闘艦橋のすぐ横下にあり、主砲と同じ方位盤照準器が装備されている。副砲はもともと対水上艦射撃用にできているので対空射撃には不向きだが、それでも低空で来襲する雷撃機(魚雷攻撃機)を捕捉しては、対空戦闘用に装備されていた三式通常弾(散開弾)で、五斉射ほどの射撃を浴びせた。

「しかし、魚雷回避のための転舵が激しくて射撃が思うに任せず、また、せっかく敵機を捕捉しても、味方駆逐艦への危険の配慮から発射できなかったりして、切歯扼腕の思いでした。雲が低いので遠距離砲戦の機会はなく、来襲した敵機に対して、主砲は一度も撃つチャンスはありませんでした。米軍機の攻撃は、雲のなかでもよく連携がとれ、また、対空砲火の弾幕をいとわず突撃してくる勇敢さに感心しました。ただ、狙えば必ず当たりそうな巨艦に対して、魚雷や爆弾の命中率は意外に低いと思いましたね」

「この調子ならたどり着けるかも知れない」

敵の第一波攻撃で被弾したものの、「大和」は速力も衰えず、前檣楼の被害は皆無で、なおもやる気十分で沖縄に向かおうとしていた。清水も、「この調子ならたどり着けるかも知れない」と思ったという。しかし、敵機の攻撃はとどまるところを知らず、第二波、第三波攻撃で被害は累積し、特に左舷に集中して命中した魚雷のために、艦の傾斜は静かに増大していった。

「戦闘中は、いろんな音にかき消されて、前檣楼にいても魚雷の命中音は聞こえませんが、そのたびに艦が大きく揺れるので、数多くの魚雷が命中しているのは感じていました。爆弾は、命中してもポンという音が聞こえるぐらいです。傾斜は、しばらく5度ぐらいで持ちこたえていましたが、こうなると主砲はもちろん、副砲ももう撃てません。高角砲も、射撃困難に陥って散発的になっています。被雷による浸水でだんだん傾きが増してきて、左17度まで傾いたところでいったん止まりました。主砲塔の上にまで特設機銃が装備されていましたが、対空機銃だけが、最後まで心憎いまでに撃ち続けていました」



米軍機の攻撃を受ける「大和」


艦はまだ半速(9ノット、時速約17キロ)程度で走り続けている。電灯はついているし、電話や拡声器も使える。水線下の機関科員の健闘がうかがえる。だが、高角砲、機銃が次々と被害を受けて対空能力が激減したため、やがて敵機は頭上を飛び交うほど、意のままに攻撃を加えてくるようになった。

「そんななか、第一波の被弾による後部火災は鎮火せず、弾火薬庫付近に立ち上る煙が、始終気になっていました。後部副砲の火薬庫が過熱して、手がつけられないとの報告も上がってきた。そしてこのことが、のちの大爆発の原因になったのではないかと、私は推定しています」

沈没は時間の問題になってきた。やがて艦長より、「総員最上甲板」(総員退艦)の命令がくだる。清水は、側にいる指揮所員に、「死に急いではならない。浮いているものがあったら何でもよいから掴まってじっとしていること。絶対に一人になってはならない」と指示した。部下たちには、誰一人として動揺の気配は見られなかった。

「まもなく左舷に命中した魚雷によって傾斜は急激に増大し、私は横倒しになった指揮所に踏みとどまったまま水につかりました。海水の入るザーッという大きな音が聞こえていて、前檣楼の周りの海には、多くの乗組員が泳いでいました」

大爆発を起こした「大和」

指揮所の窓から海中に吸い出され、海面に浮上した清水が振り返ると、目の前に巨大な「大和」の赤腹が、まるで山のようにそびえて見えた。その上には10名近い乗組員が、まるで人形のようにきれいに並んで万歳を叫んでいる。これがあの「大和」か、と目を瞠った次の瞬間、「大和」は大爆発を起こし、清水の身体はふたたび海中深く吸い込まれていった。どれぐらい潜ったかはわからない。真っ暗だった。やがて周囲が明るくなり、気がつけば海面に浮上していた。「大和」の艦影はもう見えなかった。ときに午後2時23分。



大爆発を起こした「大和」(部分拡大)


周囲には、艦から漏れ出た重油が層をなし、空は黒々とした雲に覆われ、あたりは薄暗い。200メートルぐらい先か、海中から赤い大きな炎が不気味に高く燃え上がり、そのなかで火薬が閃光を発し、花火のようにはぜている。主砲の発射用火薬がロケットのように滑走してこちらへ向かってくる。空からは大小無数の鉄片や鉄板が降り注ぎ、水しぶきを上げる。

「そんななか、目の前をなにか黒い丸いものがいくつか動いているのが見えた。『ああ、生存者だ』と思ったら、ふと我に返りました。脱出したときは大勢泳いでいたのに、爆発に巻き込まれたのか、多くは残っていませんでした。せっかく生き残った者を死なせてはいけない。私は思わず、『准士官以上姓名申告、近くにいる下士官兵を握って待機、漂流の処置をなせ』と叫びました」

戦記文学の古典的作品『戦艦大和ノ最期』の著者、吉田満少尉も近くにいたらしく、同書にも、〈声枯レテ響キワタル……叫ブ横顔ハ清水副砲長カ〉という場面が出てくる。

これからの時代は人を大事にしなければならない

清水は、近くにいる10名ばかりと励まし合いながら、静かにうねりに揺られていた。風もなく静かな海だった。駆逐艦がすぐ側を南に向け走り去った。生き残りの駆逐艦だけで沖縄に突入するのか。清水たちは海面から手を高く上げ、「後を頼むぞ!頑張れ!」と叫んだ。もはや生も死もなく、運命の波間に夢でも見ているような気がした。今日1日、何もなかったかのように、水平線のかなたに夕日が低く雲に映えて美しかった。そのときは、作戦が中止され、残存駆逐艦が反転することになるとは知る由もなかったのである。

清水は、2時間あまりの漂流ののち、駆逐艦「冬月」に救助され、翌朝、佐世保に帰還した。有賀艦長は艦と運命を共にし、生存者中最先任者(序列がもっとも上)である能村副長は頭部に重傷を負って入院しているので、清水が代わって「大和」特攻の戦闘詳報を書くことになった。現在、防衛省防衛研究所に保管されている「軍艦大和戦闘詳報」は、清水の手によるものだ。いまでは名高い戦訓所見、

〈「思ヒ付キ」作戦ハ精鋭部隊(艦船)ヲモミスミス徒死セシメルニ過ギズ〉

……という一節を、清水は第二艦隊司令長官・伊藤整一中将、有賀艦長をはじめ、「大和」と運命をともにした2740名への万感の思いを込めて書いた。



清水が書いた「軍艦大和戦闘詳報」。〈「思ヒ付キ」作戦ハ精鋭部隊(艦船)ヲモミスミス徒死セシメルニ過ギズ〉の言葉を、清水は万感の思いで書いたという


ほどなく、終戦。清水は、最後に残された数隻の駆逐艦を寄せ集めて編成された第三十一戦隊の砲術参謀として駆逐艦「花月」に乗艦、再度の出撃に備えているところだった。



「大和」沈没後、第三十一戦隊参謀となった清水芳人少佐


「悲しいことに、もはや動ける艦がこれら数隻の駆逐艦しかなかったんですよ。瀬戸内海の柳井(山口県)の沖に停泊して、艦に網をかぶせて木の枝をつけ、マストには松の木を立てて敵機から見えないように偽装していました。対空射撃をすると居場所がバレるから、敵機が上空を飛んでも見送るだけです。8月15日、玉音放送を聞いたときは、まあこれでよかったと思いました。艦が沈むと人も沈む。『大和』をはじめ、艦と一緒に優秀な人が大勢死んでしまって、これからの時代は人を大事にしなければならないと思いました」

戦後は農業に取り組んだ

終戦後は7ヵ月間、呉に残って復員事業に従事したのち、帰郷。妻の実家のある愛知県で農場を開墾、精麦工場や倉庫業を営んだ。

「帰った翌日から地下足袋をはいて農業です。鍬を持って朝から晩まで、若い人と一緒に、負けるもんかと頑張りました。犬が日向ぼっこで昼寝なんかしているのを見ると、『私は貝になりたい』ではないけれど、犬になりたいなあ、と思ったこともありましたよ。しかし、生かされてあることを思えば、世の中にも、家内の両親にも尽くさねばと一生懸命でした」

戦後の歳月はあっという間に過ぎた。清水にとって、戦争中の4年間は、戦後の半世紀に匹敵するほど長く苦しい時間だったのだ。清水は言う。

「戦争の是非はさておき、国家民族危急のとき、『大和』とともに、身命を賭してこれにあたった乗組員たちがいたことを、後世の日本人が少しでも記憶にとどめてくれたら、彼らも浮かばれるんじゃないでしょうか。沖縄に米軍が上陸し、なんとかこれに一矢を報いなければと、自己犠牲をいとわなかった尊い気魄は、いわゆる戦争責任論とは別のもの。あの敗戦の廃墟から立ち直り、奇跡的な復興を遂げたのは、戦いに斃れた人たちの精神が、日本人の心のどこかに残っていたからだと思っています。死んだ連中の分まで頑張らなきゃと、みんなが思っていましたからね」



インタビュー当時の清水芳人(2003年、撮影/神立尚紀)


戦艦「大和」は、東経128度04分、北緯30度43分、水深345メートルの地点で、海底の墓標となって、幾千の骸とともに、いまも静かに眠っている。そしていつまでも、日本人の心のなかに、複雑な感情とともに生き続けることだろう。